しゃくりあげながら時間をかけたジャスミンの説明を、燃次はほとんど聞いていなかった。カネの話だということだけはわかった。それでよかった。 ジャスミンの存在はほんのわずか、記憶に残ってはいたがたとえ全く知らない相手でも協力しただろう。自分を頼ってきたというだけで充分、燃次にとっては理由になる。何より若い娘の涙は強烈に燃次の情を刺激した。保証人というより、保護者を引き受けたようなものだ。 そこからは、仕事の合間を縫ってジャスミンと行動を共にした。銀行や不動産屋はもちろん工務店など、若い娘が一人では雑な扱いを受けかねない場所は全て一度は顔を出し、寸法をつけてやった。加えてジャスミンが一人で進めていた話は一旦全て白紙に戻させた。世間知らずの若い女一人何とでも、と丸めこまれたような部分が多く、そんな話はねえだろうとブチ切れてやった場面もあった。とにかく燃次が睨みをきかせていれば、ジャスミンにとって不条理に損な話にはならなかった。 ただ、それは、ジャスミンが店を始めるまでのことと決めていた。 ごく小さなものではあるが好立地、二階住居の中古物件を見つけ、居抜きリフォームを着工したとき。燃次はふっつりと姿を消した。ジャスミンが連絡しても、なんだかんだと理由をつけては「うんまあ、そのうちな」というお決まりの台詞を繰り返すばかり。直接顔を合わせることはなくなった。 燃次としては。工務店の担当がやはり若い女で、ジャスミンに親身に話をするのを見て、そろそろ潮時だと感じたのだ。店の雰囲気にはあまりにそぐわない、自分のような男が頻繁に出入りしてはジャスミンと新しい店の評判にかかわる。 「ワタシずっと待ってた。ネンジに会いたかった」 「お前何言ってんだ?今日はしょうがねえ来てやったが、俺としちゃあ、俺とお前が次に会うのはだなぁ、今度こそこの店が傾いて、そんでお前が自分の力じゃカネを返せなくなったときだろ?」 「…なんで?なんでそんなこと言うネ?ワタシは来てほしかった。ネンジに…」 ジャスミンが涙声を震わせたとき…。 唐突に店のドアが開き、ウインドチャイムの音色が響いた。 「あらごめんなさい!シャッターが開いてたから今日はまだやってるのかと思って」 闖入者は60代と思われる女。台詞からしてまあ、常連客とみて間違いはないだろう。夕飯に必要なものを買い忘れて家を出てきたような、部屋着に年代物エプロンという恰好で胸に紙袋を抱えている。こんな時間に他の客がいるなど想像もしていなかったのだろう、燃次の後ろ姿を見つけた驚きを隠さず店に入ると同時に素っ頓狂な声を上げた。 「あ、ごめんなさい!ちょっとお客さん…お店のじゃなくて、ワタシのお客さんが来てて」 「違うの違うの、この間のお礼にこれ、美味しいりんごをたくさんいただいたから~、お裾分け!」 「えー、いいんですか!?ありがとう、すごく美味しそうネ!」 女が傾けた紙袋から紅く艶やかなりんごが幾つか覗いた。ジャスミンは目を輝かせ、女のもとに駆け寄った。ひらりとはためいたその白衣の裾に、美しい花の刺繍が施されているのが見えた。 「そうそう次に来たときでいいんだけど、お薬前のに戻してもらおうかしら?今のも悪くないんだけど、ちょっと眠くなっちゃうのが気になるのよね~」 「前の…ああ、はい!今出しましょうか?」 「いいのよ~なんだかお邪魔みたいだし、また今度で…」 女はそこまで言って改めて燃次を見ると、ぎょっとしたような顔をした。振り返って二人のやり取りを見ていた燃次の風貌、鋭い目付き。何をとってもこの店とジャスミンの雰囲気に相応しくない胡散臭さだ。こんな男が店の客ではなく、この若い女店主の個人的な客だと言う。その違和感はよほど強烈なものだったらしい。 「あなたのお客さんっていうのは…?お店のじゃなくて?」 「あーえっとこの人はワタシの恩人ていうか、お店を出すときにお世話になって…」 「お店を出すときに?」 「ハイ、そうです。んーと…おカネのことでちょっと」 「お、おカネのことで…!?」 女の声はただの驚きではなく、呆れや困惑を含んだ高音となり店にキンと響いた。 ジャスミンの迂闊な紹介に不味いと感じていた燃次が身を乗り出し話に割って入る。 「おい、おいちょっと待て!」 何故だかちっともわからないといった顔で振り向くジャスミンに、ああお前ェはそうだろうよと内心舌打ちをして燃次は強引に続けた。 「俺はエンドシティで花火作ってる六尺玉燃次ってもんだ。この娘が子供の頃からの知り合いで…、ニホンで店を始めてえって言うからまあ、言ったら保護者みてえな役を引き受けただけだ。ここらじゃ知り合いが少なくて不便だっつうから、そういう、それだけの話だ」 「あ、あらそう…、それなら、ねえ…ホホホ…」 そこでやっと少し、場の雰囲気が柔らかいものとなる。女も多少納得したようだった。仮に納得していないとしても、何とか話の落としどころをつけることはできたはずだ。燃次はやれやれと肩を落とし、椅子を回してカウンターへと向き直った。 「?えっと…」 「あ、いいのいいの気にしないで~それじゃまた今度、明日にでも来るわね~」 特に何かを察したようでもないぼんやりした笑顔のジャスミンに紙袋を押し付け、女は慌てて手を振りそそくさと帰って行った。 「おい!お前ェ、妙なことを言うんじゃねえ!!」 女の姿が見えなくなったことを確かめてから、噛みつくように燃次が吼えた。 「妙なことって?何が?」 「うんまあわかんねーから言っちまうんだろうな!?俺とお前ェみてえなその、年の差で、女が男にだな、カネのことで世話になったとか!言わねえぞ普通!」 顔を真っ赤にして怒りさえ滲ませる燃次。その吐き捨てるような説教に戸惑い、ジャスミンは首を傾げた。 「なんで?」 「その…それは…」 「ワタシがネンジのことを人に言っちゃいけないの?それが、普通なの?」 叱られてしょげる子供のように、ジャスミンは悲しそうな顔で燃次を見上げた。 燃次としては、その全く話が通じていない様子に苛々しているのだが。 「さっきのオバサンも最初は変な顔してたろ!?ありゃあ、ばっちり勘違いした顔だ!」 「勘違い?」 「うんだから…、お前が俺に…、」 「ワタシがネンジに?」 「いや…もういい、頭が痛くなってきた」 この年齢でここまで言って理解しないのがどうかしている、と思うのだが、相手はよその国から来た世間知らずの箱入り娘なのだからこんなものか…、とも思う。燃次は凝った肩をごりごりとほぐしながらため息をついた。 「どうおかしいのか教えてくれなきゃ、ワタシ、また言うヨ」 「………」 「ねえ、ネンジ」 汚れのない瞳に、キラキラと星が瞬くようにさえ思える。こんな女だから、保証人を引き受けたのだった…。悪い奴に騙されないように。悪い男に騙されることのないように。 こんな箱入り娘を半年も放っておいたのは間違いだったのかもしれない。何らの被害の出る前に気づくことができてよかった。燃次は一歩ずつ距離を詰めて来るジャスミンを制止するように言葉を並べた。 「その…、若い女がだな…まとまったカネをオッサンから…、体と引き換えに受け取るってえ話が、世間にはあるっていう…そういうことだ」 燃次としては割と旨く説明できたように思えたが、ジャスミンの表情からはまだ「?」が消えない。 「体と引き換え?何?人身売買?」 「違う、つまりその、結婚じゃねえが…」 「結婚?」 ぽっと頬を染めるジャスミンにとうとう燃次の怒りが爆発した。 「ええい、いい加減わかれよ!!どこまで世間知らずなんだよ全く!!」 ガタガタと椅子を蹴飛ばし、立ち上がった燃次は驚くジャスミンに詰め寄った。 「だから!さっきのオバサンはな、俺がこの店の資金を出してやる代わりに、俺が、お前ェを抱いたと思ったんだよ!」 「…抱く?」 ジャスミンはここに至っても未だ小首を傾げ、呑気に両腕を交差させ抱きしめるポーズを作って見せた。 「違ぁう!男と女が夜に布団に入ぇって裸んなって…、知らねえのか!?子作りするってことだ!いや、出来ちまったら逆に困るわけだが」 「あ…交尾のこと?」 「そうだ、それだ!ていうかお前の知ってるニホン語ってそれなのかよ…」 「あ、性行為!?性交!?」 「うんまあわかったんならなんでもいい!とにかく、そういう誤解を招くってことだ」 「ワタシと、ネンジが…」 かあ、とジャスミンの顔が真っ赤に茹で上がる。 「とにかく一回閉めろ!シャッター閉めろ!」 「あ、うんっ」 もたつきながらシャッターを閉めるジャスミンを、燃次は呆れた顔で眺めた。ため息が止まらない。 - next - |