「俺がこの店に来なくなったのも、結局はそれだ。客でもねえのに俺みてえな男がお前ェに会いに来るのは不自然だろ」
「え…?」
「わかんねえのかよ…まあいいや。とにかく俺はもうお前ェと会うつもりはねえよ。別に会ったからって話すこともねえだろ、保証人てのはカネ借りるときにいりゃいいだけなんだ。そもそも会う必要がねえんだよ。ああ、店がうまくいくようにだけは祈っとくさ、借金ひっかぶせられちゃあたまらねえからな」
「ネンジ…待って」
「この店の裏口はどこだ?シャッター閉める前に帰ればよかったぜ、ったく」
「ネンジ」

心底うんざりした様子で腰を上げた燃次に駆け寄り、ジャスミンはおろおろと見上げた。大きな瞳が潤んで、ほろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「んだよ、勘弁してくれよ…」

見知らぬ娘が自分を頼って流す涙には心動かされるが、よく知った女との痴話喧嘩で涙を見せられるのは鬱陶しい。そんなものだ。

「会う必要がないなんて、理由がないなんて、そんなことない…」

胸の前でかたく握りしめていた拳をゆっくりと開き、ジャスミンは燃次の軍手の端をつまんだ。

「会いたいと思ったら、それが会う理由ヨ。違う?」

これには燃次も慌て、さっと手を引っ込めてジャスミンの指を振り払った。

「こ、小娘のくせにいっぱしの口をききやがるじゃねえか…けどお前、それじゃまるで、」
「ネンジに聞いてほしかった、ワタシの話…ワタシがいっしょうけんめい頑張ってる話、毎日の話」

惚れた男に見せるような顔を何故俺に、という疑問が浮かぶ。
いつから、一体いつからそんな目で。

「十年ぶりに会ったとき、あのとき、ネンジがワタシの涙を拭いてくれたこと、ワタシ、ずっとおぼえてたヨ。あのときのホッとしたきもち、ワタシ、ずっと…、だから、ネンジに」

悪い男に騙されねえように保護者になってやったってえのに、もうコロッと騙されていやがる…。無論、騙したつもりなど露もないが。燃次は苦虫を噛み潰したような顔で俯き、頭を抱えた。

「お前ェは確かに学のある奴なんだろうがよ、世間知らずなとこが玉にキズってやつだ」

ぱちぱちと目を瞬かせるジャスミンは無視して続ける。

「別に…、誰か他のヤツでもいいじゃねえか。お前ェなら俺じゃなくたって他に若えのがいくらでも」
「そんなことない…ワタシ、ワタシにも、よくわからないけど…でも」
「…でも?」
「ネンジがいい」

そこまで言われてしまうと、燃次としてももう降参するしかなかった。見上げてくるジャスミンの頭に手のひらを乗せると、それが合図のようにジャスミンの体が自然に一歩前へと進んで抱き寄せたような格好になった。

「ネンジ…ネンジ、会いたかった!会いたかった…」

燃次の胸に頬をあて、子供のようにジャスミンは泣きじゃくった。
両腕を背中にまわして抱きしめてもよかったのだろうが、ただその姿を見下ろして燃次は今日何度目かのため息をついた。観念したように軍手を外し、柔らかな頬を転がり落ちる涙の粒を、ずんぐりした親指でぬぐった。

「男の胸で泣きてえとは、お前ェも一人前になったもんだ」
「………」

いつもなら薄桃色の頬は涙に濡れ、腫れたように紅かった。そこを今度は人差し指も使って拭く。目の下、鼻の横、顎と順にたどる途中で、偶然、唇をかすめた。柔らかいゼリーのような桜色の唇。肌との境目で指を留め、暫し見とれ、もっと触れたいと思ったところで我に返る。

「…さて、それじゃあ、お前ェの望み通りに聞いてやるとするか。この半年、この店で、お前が何をしてたのか」
「ん…」
「俺に会えねえでお前ェがどれだけ寂しがってたか、じっくり聞いてやるよ…、………」

お前ェの体に。

ただの軽口として、本当に軽い気持ちでからかってやるつもりだった。もしくはお前が何かを期待する男はこの程度の下衆い奴なんだと苛めてやりたい気もあった。しかしそれが、たった一言のそれがどうしても出ない。燃次は中途半端に開けた口をへの字に結んだ。こんなことは初めてだ。どうということはない、何も知らない、世間も知らない男も知らない子供のような女を前にして言葉を失うとは。
妙な間を感じ取ったジャスミンの瞳に不安そうな色が浮かぶ。何か言わなければ…とは言え何も思いつかない。何でもいいから繋がなければ…燃次が闇雲にそう焦ったとき。

ぐうう~、と腹の虫がステレオで鳴いた。

張り詰めた糸をプッツリと、凍えるような緊張感をガッツリと破壊してくれたことは間違いない。むしろありがたいと思えるほどの絶妙のタイミング。

「…けどまあ、…メシ、だな…まずは」

燃次は仕事終わりでここに来てから先程のジャスミンティー以外何も口にしていないし、ジャスミンのほうもおそらくは。

「奢ってやるよ、今日はお前ェの食いたいもんでいい」

半年間放っておいた埋め合わせ、そんなつもりで燃次はジャスミンの頬に添えた指を離して腰を上げた。付き合いを絶つまではよく一緒に食事をした。だがそれは、いつも燃次が選んだ店だった。味は美味くとも外観は古ぼけて営業しているのかわからないような蕎麦屋であったり、狭いカウンター席が窮屈な安い居酒屋であったりもした。そんなことを思い出していると、つと裾を引かれる感触に気を取られ、戸惑いながら顔を上げたジャスミンと目が合った。

「ワタシ…」

無表情と言っていい、何を考えているのかわからない顔でジャスミンは燃次を見ていた。

「なんだよ。なんか文句でもあんのか?前は色々言ってたろ、俺の行きつけの店じゃあ…」
「ネンジと交尾してもいい」

一瞬聞き違えたのかと、燃次は話の流れというものを頭の中で再度確認した。
ジャスミンはどこか納得できないとでも言いたそうに首を傾げ、眉をひそめた。

「交尾する…したい…あ、性行為?性交!」

まだ少し濡れた瞳に、これだという正解を掴んだ喜びが滲む。が、すぐに照れたようにはにかみ、頬を染めた。未だこの程度の二ホン語で一体どうやって店を切り盛りしているのか…。一瞬心配になる。

「会う理由、それなら作れるネ?ワタシとネンジが逢う理由、それなら…」
「ば、馬鹿なことを言うもんじゃねえ!!怒るぞ!!」
「本気ヨ、ワタシ!」

とんでもないことを平気で口にするジャスミンを燃次は叱り飛ばした。しかしジャスミンも退かず、拳を上下に振って応戦する。世間知らずもここまで来ると逆に怪しいものだ。男を知らないと決めつけたのは早計だっただろうか…。いや、だからどうということもないのだが。

「…お前ェ…、そこら辺にしとかねえと…、後で、屹度後悔するぜ」
「いい!ネンジがいいの、ワタシ」
「………」
「ネンジ、ねえ、いいって言って…ネンジ」

甘えたような囁きに耳を傾けながらその艶やかな髪に指先を潜らせ、燃次はジャスミンの髪飾りの花を愛しそうに撫でた。

「うん…まあ…、そうだな…、そのうちな」
「嘘!ネンジの”そのうち”はぜったいウソ、ワタシもう騙されないヨ!」

頬を膨らませて怒るジャスミンの額を小突いて燃次は声を上げて笑った。高らかに、少し大げさなくらいに。
それからぐるりと首をまわし、ごきごきと肩を鳴らしてから。苦笑いの浮かんだ口元を、その大きな手のひらで覆い隠した。


―――本当は。
この半年間で一度だけ、様子を見に来たことがある。

店には入らず、少し離れた場所から中を覗いた。客を前にして堂々と、身振り手振りも交え説明するその様を。達者でやっている、ジャスミンを見て。それでいいと思った。
チームオブブルースの一員としての役目を終えてからの十年間、燃次の生活にあまり変化はなかった。電脳花火職人として名誉ある賞を勝ち取ったり、それによって職場での立場が上がったりもしたのだが、基本的な生活自体はほぼ変わることはなかった。独りで仕事のことばかり考えていた十年間。幼い子供から一人前の薬剤師へと成長したジャスミンほどの劇的な変化はない。否、それはそれで充実したものだったが、突如として訪れたジャスミンとの日々は、あまりにも…。

誰かに、間違いなく求められていた。必要とされていた。それがとてつもなく心地よかった。思い返すほどに眩しかった。
しかし相手は一回り以上も年の違う若い女だ。何の共通点もない。話していても合うと思えるところがない。住む世界が違う、そう感じた時点で少しは意識していたのかもしれない。ただのお節介以上の感情を持ち始めていたのかもしれなかった。慕ってくるジャスミンと、言われるままに世話を焼いてやる自分。ずっとこのままというわけにはいかない、そんな思いに囚われたのはいつのことだったろう。

店で見かけた客は若い男で、何ということもない、しかしなかなかに普通の男だった。たちの悪い男なら一目で見抜ける。年齢のつり合いも取れているし、見た目も悪くない。ひょろっちいが嫌味の無い今風のなりをしている。店の雰囲気にも合っている。ジャスミンがもしも惹かれたなら、一応の保護者としては、許すこともできそうな気がした。

これでいい、手遅れになる前に手を離すことができてよかった。お前ェはこのまま俺の手の届かないところへ行っちまえと胸焼けにも似た感情に身を任せたのに。


「…この店の椅子は俺にゃあ小さすぎる。尻が痛ェからもっとでかい奴を用意しておけ、次までにな」

そう言われてやや考えた後で、言葉の意味を理解したのかジャスミンはぱあっと明るい表情を浮かべ勢いよく燃次に抱きついた。燃次が何もせず苦笑いで見下ろしていると、もぞもぞと動いて不満そうに見上げた。

「女の子がくっついてきたら、こう!もう、全くネンジは何もわかってないネ!」

ジャスミンは燃次の太い腕を掴んで無理やりに体を抱かせ、頬を膨らませて唇を尖らせるお決まりの怒りポーズを見せた。どうやら先程、ジャスミンが燃次の胸で泣きじゃくったとき、燃次があえて抱きしめなかったことを根に持っていたらしい。

「………」

何もわかってねえのはお前ェだろ。人の気も知らねえで。

「…しょうがねえ。しょうがねえ…なあ…。お前ェみたいな世間知らずのじゃじゃ馬娘、放っておけねえや…」

諦めたように呟いて顔を上げると、壁に貼られた手書きのポスターが目に入った。気やら血の巡りがどうとかとか、そんなことが丸っこい字で書かれている。その隅に小さく書かれた”茉莉花漢方薬局”の文字。茉莉花…、目の前の女の名前と同じ。確か香りの良い小さな白い花が、寄り添うようにして咲く。
そんなことを考えながら目を閉じると、ふいに瞼の裏に火花が散った。ごく小ぶりの、小さな小さな花火が次々に開いては、消える。専門は大輪の花火でそればかり好んで造るのだが、こういうのも悪くない、と思わず頷いた。そう言えば新しい花火の構想を練っていたところだった。

「悪くねえなあ」
「なに?何が…?」
「なんでもねえよ」

燃次はまた一つため息をつくと、ジャスミンのその小さな体を抱く腕に、少しだけ力を籠めた。









- end -











2018/06/09