店の中は温かく柔らかい光で満たされ、硝子越しに覗いただけでほっとするような空間に思えた。定時で仕事を終えた燃次は暗く、冷えきった夕闇を吐きながら取っ手を持ち、ゆっくりドアを開けた。

「いらっしゃいマセ!」

何年ニホンに住んでも、少し癖のある発音が抜けない。昔よりは幾分か落ち着いたものの、鼻にかかった可愛らしい声。
その主を探す前に、燃次はリリン、リリンと鳴る鈴のような音に気をとられた。見上げるとドアの上のほうに何か金属の棒が何本かぶら下がって優しい音をたてている。ウインドチャイムというものを燃次は知らない。ただ、それについていた色とりどりの小鳥の飾りを見て、ここはそもそも女が来る場所なのだということだけはわかった。

「ねえ!見て!ワタシ、お店の人!みたいでしょ?」

急かす声につられ、改めて店の中に顔を向ける。

「あ、ああ。そうだな、様になってる」

燃次のぎこちないお世辞をまともに受けてニコッと笑ったその顔は、子供の頃とあまり変わらない。カウンターの奥に立っているのは、小柄な体に白衣を纏った少女、のような女だった。切れ長の目に薔薇色の頬、ツンと尖った唇。長いはずの黒髪は綺麗に編んでまとめられているせいで、一見短く見えるが角度を変えればそうでないことがわかる。耳の後ろの花飾りも、昔と同じものだ。

「待ってたヨ。来てくれて嬉しい。ほんとうは、来ないかもしれないって思ってたネ」
「そんなに待たせたか?だいたいの時間は教えたろ。それに、これでも定時で終わらせて来たんだぜ」
「…そういう意味じゃない」

一瞬、静かではあるが弱くもない意志を覗かせた後ですぐに表情を変え、ジャスミンは訝る燃次に微笑みかけてふるふると頭を振った。

「ううん。いいヨ、もう。来たからいい」

半年ぶりに会う女の顔は、なんだか妙に憂えて艶っぽく見えた。鈍い燃次でさえも、ひょっとすると男でも出来たのかと勘ぐってしまうほどに。

「それよりねえ、ネンジ、座って」
「ああ…」
「待ってて、今お茶淹れるネ」

すすめられた椅子は背もたれのない、クッションの丸いものだった。体格の良い燃次が腰掛けると、ギィ、と頼りない音をたてた。
ジャスミンの後姿が店の奥に消えたのを見届けてから、燃次は遠慮なく店を観察した。カウンターの後方の棚にはごちゃごちゃと小物がディスプレイされているが、よく見るとそれは薬の入った箱のようだった。隣にはぎっしりと本やファイルが詰まった本棚。数は相当多いが、綺麗に並べられよく管理されているのがわかる。
カウンターの一角にパソコンや血圧計のような小型の機械。ここで客の話を聞くのだろうか。プラグインできそうだが、今はいちいち調べるつもりはない。
ここまでは特に気になることもなかったが、ふと目をやった照明が、洒落たペンダントライトで少し違和感を感じる。壁の壁紙も、天井まで白一色なのだが目を凝らすとチョイナ風の模様が浮き出て見えた。そう言えば店に入った瞬間から、ほのかに花のような匂いが漂っていることも、そうだ。

「喫茶店かよ、ここは」
『かふぇだろ、それを言うなら』

思わず呟いた独り言に、PETからナパームマンが鋭く突っ込んでくる。

「うるせーな、なんでもいいだろ」

一面だけ壁紙でなく木目の壁があり、手書きで作られたらしい漢方の説明文などの張り紙がいくつか貼られている。なかなか姿を見せないジャスミンを待つ間、それらをぼんやりと眺めたり、新しい花火の構想を練るなどして過ごした。

「おまたせ!今日のは一番綺麗に開いたヨ、ほらほら!」

盆に乗せたガラスのポットの中で、燃次の目には縮れたアザミの花のように見えるものが薄い黄色の液体の中でゆらゆら舞っていた。ふわりと漂う香りは全く知らないわけではないが馴染みもない。お茶だと言ったのだから何かの茶に違いないのだろう。

「ジャスミンティー、きらい?」
「いや…」

嫌いかどうかもわからない。飲んだことがないのだから。しかし燃次は注がれたそのジャスミンティーを躊躇なく口に運んだ。

「おいし?」
「…ああ、思ったよりうまいぜ」
「思ったよりって何ネ!?」

突き出し気味の唇がますます尖る。燃次はジャスミンのそんな膨れっ面は無視して唐突に切り出した。

「で…、どうした、カネの話ってのは。もう潰れんのかよ?この店は」

この話をするために来たのだった。お金のことで話があるから来てほしい、そう言われて燃次は半年ぶりにここまで足を運んだ。

「ああ、それネ。うん。それは、ウソよ。お店はうまくいってるヨ」
「おいおい!なんだ、そりゃあ!人をこんなとこまで呼び出しやがってお前ェ…いってぇどういう了見でい!」

ジャスミンは悪びれの欠片もなくさらりと自白し、小さく舌まで出して燃次をからかうようなしぐさを見せた。腹を立てた燃次が睨みつけると、今度は思わぬ反撃を食らった。

「ネンジ、なんで…ずっと来なかった?」

ジャスミンの顔に今度こそ明らかにムッとした表情が浮かぶ。

「ワタシ、ネンジが急に来なくなったから…、お店も、オープンしてからもう半年たつネ」
「ああ…でも花は送ったろ、開店祝いのやつ」
「ワタシ、ネンジに一番に見せたかったヨ。このお店で、ワタシがはたらくところ…一番めのお客さんになってほしかった」

ジャスミンは俯き、両手の指先を深く絡ませた。先程までの明るい笑顔は影を潜め、眉間には皺が寄った。燃次は痛い腹を探られたことに密かに狼狽し、慎重に言葉を選んだ。

「うん。まあ、それはだな。なんつーか…」
「それまでは毎日だって来てくれたのに、ワタシ、急に独りになったら、ワタシ…」
「店のことで困ったら、俺じゃなくても他に頼るところあんだろ?前にバイトしてた店とか、あーなんだ、大学の先生様とかダチとかなんか、その辺のよう」

自分の店を持ちたい。故郷のチョイナではなく、二ホンで。
それがジャスミンの夢だった。祖父がチョイナでは非常に高名な中医学の薬剤師であり、二ホンにもツテを持ち漢方にも明るいという、十分すぎるほど整った環境の恩恵を受け史上最年少で国家資格を取得。二ホンの大学には生徒というよりは講師のような形で、学費免除の身で通った。同時に祖父の知り合いの店で修業。初めて二ホンに来て、チームオブブルースのメンバーを務めたあの頃から十年、駆け足というより猛ダッシュで走り抜けた十年間だった。

「そうだけど、でも、ネンジはワタシが一番困ったときに助けてくれたから…」
「店の工事が終わっちまったら俺の役目は終わりだ。俺はそう思った」
「だからってなんでいきなり…、いきなり冷たくなるネ!?」

冷静に理由を話す燃次に対し、ジャスミンは痴話喧嘩のような台詞を並べてぶつける。それまで親身になって協力してくれたというのに、店の開店直前になって突然、これくらいでもういいだろうと手のひらを返したように、唐突に姿を消した燃次に。











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