ん、と顔を傾けて瞳を閉じて、少しだけ体を寄せて。 その細い指先で軍手の裾を握ってくる。 「嬢ちゃん、こんなとこでか?」 慣れたというより、いちいち照れて狼狽える姿を見せるのにも飽きたといったほうが正しい。平常を装いながら燃次は小声で尋ねた。意図したわけではないが囁いたとも言えるほど甘く、ジャスミンの耳にはそう届いている。 「…別に誰も見てないヨ、こんなとこって何ネ?」 暫く待ってみても期待したもの、恋人同士別れ際のキス。それが一向に与えられないことを悟り、ジャスミンは気だるげに目を開けると燃次を見上げた。 昔と変わらない艶々とした黒髪が一筋、頬にかかったそれを払ってやり、燃次はため息をついた。確かに、誰も見ていない。…が、ここはジャスミンの住む寮の前、玄関先の門の前である。誰も見てはいないが、今この瞬間にでも顔見知りの誰かが扉を開けて出て来たとしても全く不思議はない。 「いや…」 「イヤ?」 そうじゃねえけど、と眉をしかめたのが不機嫌に映ったのか、ジャスミンが唇を尖らせてうつむいた。 いや違う、そういうわけじゃない、ただ。 ただ、ただ、こうして大人になったジャスミンがほとんど昔と変わらない姿で目の前に立って、あどけなく笑ったり泣いたりするだけでなく、恋人としての感情と行動を求めてくるのをどうやって受け止めればいいのかが、まだよくわからないのだ。 「あ、っ」 だがこういうときの正解は多分、これだ。人差し指と親指をその細い顎にひっかけて一瞬、触れるだけ、素早く口づけて離れた。 初めて好きだと言われた日。 今さら女とどうのこうのなんてこともねえやなと、とっくに乾いてひび割れた土にひとしずく、染みるように湧き出した甘酸っぱい感情。 まだつい昨日のことのようだ。唇に触れるたびに思い出す。 「早い!もっと長いのがいいヨ!ズル!」 「勘弁な、嬢ちゃん」 ジャスミンはダンと片足を地面に叩きつけ、握り込んだ拳を振った。 年齢だけは大人の仲間入りを果たしたはずなのに、あまり背も伸びず髪型も服装もほとんど変わらず、言動も行動もこの通り。未だ子供だった頃のジャスミンを見ているような感覚が付きまとう。 強いて挙げるならばやや赤みの薄くなった頬。 もっとふっくらした印象だったのが、今は少しすっきりした輪郭。 丈の長くなったスカートに、一人前の薬剤師の証である白衣。 これらの変化だけが、かろうじて燃次の頑なな理性に語りかけてくる。 もうあの頃のように小さな子供ではないから、少女ではないのだから、罪悪感を感じることなく抱き寄せて構わないと。何故かはわからないがこんなに年上の男に惚れてくれたことをもっと素直に受け入れて、もっと肩の力を抜いて、自然に接していいからと。 「わかったらもう部屋に上がって、な、いい子だから」 「コドモ扱いしないで!いつも言ってるのに、燃次サンの意地悪!」 今日は燃次の部屋にお泊りしたいと一生懸命ごねたのに、俺はいいが嬢ちゃんは明日早いんだろうとたしなめられたのが気に入らないのだ。ジャスミンはツンと横を向いて拗ねた。 「ああ、ごめんな、ごめんなぁ嬢ちゃん」 誓って何の感情も抱いてはいなかった、あの頃には決して、絶対に。 今でさえこんな関係になったのが信じられないくらいなのだ。好意を寄せてくれたことは嬉しくもあり、くすぐったくもあったが、相手が子供の頃からの知り合いであるわけなので。そうだったのかありがとな、それじゃあ今からさっそくやることでも一丁やってみるか、などとすんなり割り切れるわけもなく。 せめて部屋で過ごす時には髪を解いてくれと再三頼んで受け入れられてやっと、大人になったジャスミンを恋人として認識できるようになった。…かろうじて。 最初のうちは「ワタシの髪がどんなだろうとワタシの勝手」などと突っぱねていたジャスミンだったが、その髪型、昔と同じ結い方の髪を眺めながらではどうしても勃たないと冷や汗をかく燃次を見て、それなら仕方がないと渋々折れた。 「機嫌直してくれ、な?明日は来ればいいし、別に、俺だって」 嫌だってわけじゃねえんだと繰り返し詫びる。内心、苦笑いで。 このところは毎度こんな調子だ。元々女の機嫌の取り方など知らない燃次である、それどころか遠慮も配慮もへったくれもない発言ばかりする性格のせいで神経を逆撫でした経験しかない。 それが今ではこうしてしっかりと、振り回されている。相棒のナビである燃次郎にさえもその関係性をからかわれるくらいには。きっと今日もこの後黙ってはいないだろう。言い返すこともできないのだから仕様がないが。 「…うん。それならいい。明日ネ、約束ヨ」 「ああ。また明日な」 「絶対ヨー!」 先ほどまでの仏頂面が見違えるほどの笑顔になって、駆け出していったかと思うとくるりと返り、ぶんぶん手を振る姿に、燃次も大きく腕を振った。夜道だということも忘れるほど眩しい恋人、それもうんと年下の。 穏やかで優しい面もあり、自己主張という部分では気が強いとも言える彼女。 笑ったと思ったら怒る、泣いたと思ったらまた怒る、拗ねる、かと思えば一転、甘い声で―――こんな、ジェットコースターのような日々。これまでに経験したことのない時間。いや、今までだって決して退屈なんてことはなかった。燃次郎と男二人、部屋と職場の往復だけで十分にぎやかで充実した毎日だったのに。今はもう何だか毎日が騒々しくて、まるで止まない嵐のような。 「燃次サン、大好きー!!」 最後にもう一度振り返ってからの、大絶叫。 ああー、うん、と言葉を濁しながら、燃次は困ったように笑った。 寮の住人だけでなくその辺の通行人にまで、誰にでも聞こえる大声で愛を叫ばれたことよりも、それを聞いて反射的に、うっかり口を滑らせそうになってしまったことが面白かった。 ころりと機嫌が直ったジャスミンの笑顔に安堵して、思わずのどまで出かかったセリフ。ずいぶん昔にも言ったことがあるような気がする。いつだったろう、いつか…。 ずっと前に、確かに何処かで、もっと違う状況で。 思い出すことはできないけれど。 ジャスミンの姿を隠すように扉が閉まるまで待って改めて、燃次は噛みしめるように呟いた。 「俺もだよ、嬢ちゃん」 - end - |