規則正しいノックの後、ライカは分厚い扉に向かってためらいがちに声をかけた。 「まだおやすみになられないのですか、王女」 いつ止むとも、明けるともしれない吹雪の夜。雪にも寒さにも慣れているが、底冷えの厳しいこんな夜は、氷を飲み込んだように体の奥がしんと冷えて、指の先までぴりぴり痺れる。 扉の隙間から漏れる光をぼんやりと見つめながら、中からの返事を待った。 本当なら片時も離れず傍に付いていなければならない非常事態であるのに、ベッドに入るまで少しの間一人にしてほしいと柔らかい手のひらに両手を包まれ、つい頷いてしまった。女性には色々と事情があるのだろう。そう無理に納得して部屋を出、館と呼ぶにはあまりに小さいその建物の、全ての部屋と廊下をつぶさに調べてまわった。 「どうぞ、鍵は開いています」 小鳥のような、軽やかなさえずりがライカを呼んだ。 部屋を離れている間に王女にもしものことがあったら、と張りつめていた神経が少しだけ緩む。 寝室と書斎という二つの役割を持つ部屋の扉は重く、金具は錆付いてぎいいと物々しい音をたてた。 「よかった、ちょうど今書き上がったところでした」 プライドは白い封筒を胸に抱き、ふわりとほほ笑んだ。 赤茶けた絨毯と地味な壁紙、大きすぎる机と椅子とベッド。そして黴臭い本棚と暖炉。 プライドに相応しい調度品等何も無い殺風景な部屋ではあるが、暖かく薪のはぜる音が心地よかった。 何よりもプライドの無事な姿がライカの表情を綻ばせた。そのたおやかな体には不釣合いなサイズの机に向かい、立ったまま何かを書き記していたようだった。 「あなたにこれを預かってもらいたいのです」 「……どなたにお渡しすればよいのですか」 機密文書の類と勘違いしているのだろう、途端に神妙な顔つきに戻ったライカの態度が面白くて、プライドはふふっと笑ってその手に封筒を握らせた。 「またいつか、再び会える日まで持っていてください」 「?」 「遺書、と捉えていただいて構いません」 「王女!?」 「わたくしにもしものことがあったら、あなたの手で封を切って」 プライドの父、クリームランドの国王が崩御したのは決して事故の所為などではなかった。 暗殺者の存在をめぐってクリームランドは大きく揺れ、以前から対立していた勢力が国民を扇動、国は真っ二つに割れてしまった。 プライドがその第一報を耳にしたのは、公務を休んでシャーロでクロスフュージョンの研究、実験に没頭していたときのこと。起こりつつある戦争を食い止めるために、第一王女であるプライドはクリームランドに戻らなければならなくなった。できるだけ息を潜め、軍や国民を刺激しないようこっそりと。 王室の立場上どちらにつくこともできぬ身だが、命を落とす可能性も勿論、十二分にある。 「そ、そんな…王女、そんな大変なものを自分が…!?」 「王女?」 「プライド、王女…」 寂しそうな笑顔でいつものように首を傾げるプライドに、それ以上何と言えばいいのかわからなかった。 ライカにとっては、内乱の真っ只中に愛しい姫君をわざわざ送り届けるなどという任務自体が既に引き裂かれそうなほどの苦痛でしかない。プライドの身に何かあった後のことなど、当然考えたくもなかった。 一国の王女の遺書だというその封筒を手に、ライカは困り果てた。 「やはり自分も一緒に行きます、クリームランドの王宮まで」 「優しいのですね、ライカは」 「そういうことではなくっ…自分は!」 「シャーロの協力には感謝しています。でももう、ここからはクリームランドの問題」 「王女!」 「明日になれば迎えが来ます。信頼できる臣下です、大丈夫」 駄々をこねる子どもをあやすように、プライドはゆっくりと言葉を紡いだ。 納得したかどうかは別として、ライカがとりあえず引き下がったのを見て取ると、大きく頷き、にっこりと歯を見せた。そこには王女としての気品あふれる笑みだけでなく、あたかも普通の女の子であるかのような屈託ない笑顔がにじんでいた。 「少し眠ります。傍にいてくれますね、ライカ」 「…はい」 「吹雪の夜はよく、こうして父に手を握ってもらいました」 「は、はぁ…そ、それは、そう、でしたか」 お忍びの普段着のままベッドに潜り込み、プライドは力無いライカの手を強く握り返した。 ライカはベッドの傍に跪いた格好で手を伸ばしている。真っ赤な顔できょろきょろと視線をさまよわせ、時々空いた方の手で額の汗を拭う。握った手の汗でプライドを不快にさせないよう、頃合をみて右手と左手を取り替えた。 「迷惑ですか?ごめんなさい、あなたも眠いでしょうにね」 「いえ!決してそんなことは!!」 しゃきっと背筋を伸ばし、これは任務なのだと自分に言い聞かせる。 祖国シャーロの良き隣人、クリームランドの王女から仰せつかった任務であり、誇らしく思いこそすれやましい思いを抱くことなど微塵もないのだと… 「ライカの手、温かいですね…」 「そ、そ、そうでしょうか」 「わたくしの遺書、頼みましたよ…必ずあなたの手で、お願い…」 そう呟きながら、とろとろと舟を漕ぐ横顔を見つめてライカは頷いた。 訓練を受けているため眠気は感じない。そんなことよりも、こうしているだけで明日の朝までは何としてでも守り抜いてみせるという気負いがびりびりと強まる。 「わかりましたから、安心しておやすみください。王女」 「わたくしは…プライドです…」 「………」 「名前を、呼んでください…ライカ………」 「………」 「………」 「プライド………っ!」 俯き、絞り出すように呻いたその言葉が、プライドの耳に届いたかどうかはわからない。 ライカが顔を上げたときにはもう、すやすや寝息をたててプライドは眠っていた。 天使のような美しい寝顔だった。これまで目にしたどんなものよりも神々しく、気高く、薄氷よりも儚かった。 踏みにじらせはしない、この手で守り通したい。永久に手の届かない場所になど行かせたくない。 こうなるとシャーロのエリート軍人として受けた訓練も、ネットセイバーとして鍛えた強さも、何の役にも立ちはしない。 たった一人の大切な人を守ることもできない、己の無力さにライカは一人泣いた。 力の抜けてしまったプライドの手と、胸のポケットにしまった封筒の存在が温かく、ひたすらに愛おしかった。 * わたくしのライカへ あまり時間がないので、前置きは省略しますね。 ライカ、あなたにどうしても伝えたいことがありました。もうずっと前から。 ナイトマンを使った通信はいつも国に監視されていましたから、親しい友人であるあなたと満足にメールのやり取りもできない自分が歯がゆくてなりませんでした。 だからこうして、手紙にすることにしました。とても古典的な方法ですけど、ペンを持ち、紙に向かう今、なぜもっと早くこうしなかったのだろうと後悔しているくらいです。 ああ、いいえ、そんなことは今のわたくしたちにとって重要なことではありませんのに。 いざとなると、うまくは書けないものなのですね。ごめんなさい。もしかしたら友人宛の手紙なんて、わたくし初めてかもしれません。 もうすぐわたくしはあなたと別れ、祖国に戻ります。 おそらくあなたには知らされていないと思いますが、状況はかなり悪いようです。 これでもし生き延びることができても、わたくしはもう国から出られないかもしれない。 それならばいっそ何もかも捨ててあなたのもとで生きたいと、ここにたどり着くまでに何度も思い悩みました。 でも、この部屋で、この暖かな暖炉の炎を見ていると、激しく窓を叩く意地悪な雪も、国で起こっていることも全て忘れてしまいそうなほど安らかな気分になります。 最後の平和な夜を、あなたに守られて過ごせることがこの上なく嬉しいのです。 ライカ、わたくしもあなたが好きでした。 できることなら、今、こんなふうにもどかしくペンを走らせるよりも、あの扉を開けてあなたを部屋に呼びたい。 そして王女と兵士ではなく、ただの女と男として話がしたい。 あなたのその力強い腕で、弱いわたくしを抱きしめてほしいのです。 けれどわたくしはクリームランド第一王女、プリンセス・プライド。叶わぬ夢だとはわかっています。 それでも構いません、わたくしのこの想いが、こうしてほんのひとときでもあなたの傍に置いてもらえるなら。 わたくしは何も怖くなどないのです、ライカ。もう一度あなたと会える日が来るまで、…あなたにこの手紙を読んでもらえる日が来るまで、わたくしはわたくしの成すべきことを、誇りをもって全うする覚悟です。だから見ていてくださいね。わたくし、きっと内乱を治めてみせます。以前のように、平和なクリームランドを取り戻してみせますから。あなたは、シャーロで見守っていてください。 ああ、だけど、ライカ! できることなら、わたくしも自由に生きたかった。 自分の意志で、わたくしの思う通りの人生を、あなたとともに歩きたかった。 さよなら、ライカ。あなたに会えて本当によかった。 ありがとう。あなたに愛されて、わたくしは幸せでした。 わたくしを忘れないで。ときどきは思い出してください。 あなただけのプライドより - end - |