今日は、水晶玉を見てはいけない。

眠りから覚め、身支度を整え、朝食を取り、その間中ずっと、そんな感覚に囚われていた。
天井の薄汚れた木目が目に入った瞬間何もかも忘れてしまったのに、嫌な夢だったことだけは覚えている。
握り締めた手のひらにべっとりと汗をかいていた。体中寒くて仕方がなかった。


霧のような雨が街を覆い、あらゆるものを重く湿らせていた。
湿度を調節するための空調は常に正しく動いているはずなのに、かすかな黴の匂いがどうしても消えない。
前の大通りも珍しく静かで、車が道路の水をはねあげながら通り過ぎる音、水気を含んだ足音などが時折響くだけだった。


薄手のハンカチを一枚水晶玉に被せて、みゆきはその前に座っていた。
街全体が息をひそめ、人はおそるおそる日常生活をなぞる。今日は例え店を開けていたとしても、客が来るとは 思えなかった。午前に一人、午後に一人…いや、ひょっとしたらゼロかもしれない。

外の世界において、今日という日が静かな一日になることは間違いなかった。そういったものは、占いをしなくても文献を見なくても、感覚的な判断で正確に予測することができた。


そして、水晶玉に重なる不吉なイメージ。
こうして傍に座っているだけで、心がざわついて仕方がない。
店の品物、みゆきの愛する骨董品たちまでもが何かに怯えているような。いつにもましてからっぽでみすぼらしく、卑屈なものに見えた。




見てはいけないわけではなく、本当は見た方がよいという自覚はあった。
恐ろしくはっきりした予感であるほど、そこから無意識に目をそらせてしまう癖がみゆきを迷わせていた。



確信めいた予感、「今日ここに誰かが来る」それはもう何日も前からイメージとして頭の中に存在していた。
どうすればよいかわからず、また何をしても仕方のないことだともわかっていたから、いつも通りの日常として今日を受け入れた。

そしてとうとうその瞬間が、こうしている間にも刻一刻と近づいている。それはどんなことがあろうと変えられない。
水晶玉に映るものを見ようが見まいが、それもまた関係のないことなのだった。



それなのに心臓が破裂するのではと思うほど暴走している。膝の上に置いた手が、氷のように冷たく感じる。
頭が重い。苦しくて息ができない。たとえようもなく不安な、落ち着かない気分に沈み込んでいた。

耐えられなくなって立ち上がった瞬間、机が動き、水晶玉を覆っていた布きれが落ちた。


「あっ………」


ぐんにゃりと吸い込まれそうな空間に、一人の男の姿が浮かび上がった。



最初は単にぼんやりとした、深い青色の塊のようなものにすぎなかった。人間だと判断することさえ不可能と思われるそれを、みゆきは一目で「男」だと確信した。
青色の中に徐々に肌色が混ざり、複雑に形を変え、それはみゆきの予測した通り人間の男として像を結んだ。


整った顔立ちは美しく中性的で、大人びて見えるが、みゆきには自分と同じくらいの少年のように思える。
瞳は暗く、光を取り込むことができるのかどうかも疑わしいほど澱んでいた。


見覚えは全くなかった。それなのに、不思議な親しみをおぼえた。
水晶玉の妖気にあてられ、眩暈と吐き気に苦しみながらも見知らぬ横顔から目を離すことができなくなっていた。

そして、水晶玉に目を奪われたまま立ちつくすみゆきの耳に、かすかではあるが…確固たる存在を示すかのような、潔い靴音が響いた。

みゆきが我に返った瞬間には、水晶玉はもう男の姿は映さなくなっていた。



こつ、こつ、こつ、と時を刻むように規則正しく、クレッシェンドで歩みは進められる。
店の窓に人影が映った。顔は見えないが、足音の主に間違いなかった。そして、あの水晶玉の君にも。
メトロノームに似た靴音は店の前で止まった。

弾かれでもしたように、みゆきは急いで扉に駆け寄った。
ノブに手をかけ、暫し躊躇する。今がまさしく「運命の扉を開く」瞬間だと、いつもの直感が教えてくれていた。
向こうから扉が開かれる気配はなかった。男は、みゆき自ら扉を開き、運命をその手にすることを望んでいるようだった。


決して避けられない運命などではない。避けることはできるはずなのに、そうしたくないと感じている自分がいる。
占いを生活の糧にする者として、あの男…少年に会わなければならない一人の女として。


がちゃり、と金属の擦れる音の後。

ぎぃ、と重い扉が開かれた。

薄暗い外の光が―――みゆきの瞳を射て、男の姿をくっきりと焼き付けた。


「………やあ」


水晶玉に見た少年が、そのままの姿でみゆきの目の前に立っていた。

昏い瞳のせいで見下すような薄ら笑いにしか見えないが、もしかしたらほほ笑んでいるのかもしれなかった。
雨に濡れて、前髪から滴った一しずくの水が、二人の間にぽとりと落ちた。


「…今日、は、お店はお休みで…」
「はじめまして、ぼくの愛しいきみ」


みゆきの震える声と、少年の凛とした声。押し殺したようなトーンの中心に一本、通った芯。
どちらが場違いな台詞なのかわからなくなるほど、みゆきの声は弱々しく少年の声は自信に満ちていた。

「ずいぶん探したよ。やっと、見つけた…」

少年は目を細め、みゆきの頬に触れた。大切なもの、愛する者を慈しむように、そっと。
同性に触れられることさえ慣れていないはずなのに、みゆきは不快には感じなかった。
冷えた指先に唇をなぞられても、振り払おうという気も起こらなかった。


「あなたは、一体……」
「これが今度のきみの体かい?実に素晴らしいね。やっぱり綺麗だ」


少年が何を言っているのかはよくわからなかった。
ただ、決して人違いや妄想などではないことは悟っていた。どう考えても意味不明な言葉を聞かされているにもかかわらず、彼の気は確かだと思えた。

「…ご用件は…なんですか…」
「用件?」


くすりと小さく笑うと、少年は濁った瞳でみゆきを覗き込んだ。
浅緑の三つ編みを一つ手に取り、うやうやしく口付けて。




「ぼくのものになると、もう一度誓ってほしい」




いや―――狂気こそが、彼の正気なのかもしれなかった。

みゆきの胸に、得体の知れない安堵と懐かしさがこみ上げる。急に視界が滲み、次の瞬間にはクリアになった。
知っている。この人を、ずっと前から。惹かれ合う魂の絆を、生まれる前から。



「ぼくの今の名前は、キリサキ。ダーク・キリサキだ。きみは?」
「黒井……黒井、みゆき」
「みゆき……みゆき、会いたかったよ」

みゆきはキリサキの腕に誘われるまま彼に縋りつき、首筋に顔を埋めた。
女のように薄い胸板が、彼がまだみゆきの年にも届かない少年なのだと教えてくれた。

「いい名前だ。きみに相応しい、美しい名だよ…」



きみが愛していいのはぼくだけだ。
他の誰にも渡さない、何度でもきみを探し出してみせる。
少しずつ思い出すといい。ぼくが手伝ってあげるよ…


まじないのようなキリサキの言葉を聞きながら、みゆきは目を閉じた。

呪われた運命でもかまわない、と。
そんなことを考えたことは一度もなかったのに、ひどく懐かしい感情のように思えて仕方がなかった。









- end -











2006/2/20